プロ雀士コラム

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戦術の系譜8 西川 淳

2020/06/18
執筆:執筆:西川 淳
イラスト:千葉 みほ


たとえば。

あなたが麻雀をするとき。
あなたが望めば、いつでもアガることができるとしましょう。
あなたが望めば、いつでもトップをとることができるとしましょう。

果たして、そのような麻雀は、あなたにとって楽しいですか?
勝って嬉しいでしょうか。

連戦連勝。
プロならば、最高リーグで常勝。出るタイトルを獲りまくりです。
周囲からは称賛され、尊敬の目でみられることでしょう。

しかし、それで心は満たされるでしょうか。

私は、それだとツマラナイとしか感じません。
麻雀はアガれるかどうか「わからないからこそ」ワクワクする。
トップを取ることが「困難だからこそ」達成したら嬉しい。
努力の末に何かを成し遂げた時「自分で自分を褒めることができたときこそ」心の底から充足感を得られると考えています。

 

第2章

【①どの山をどのように登りたいのか】

 

前回の連載では、理論的な背景も踏まえて、アガリを登山にたとえて
・終盤にかけてアガリへの道のりは厳しくなる
・どのようなルートを選ぶか、などの技術や見識が大切
と、山を登りきるために重要な要素を主張しました。

今回は、その前提の上で敢えて提唱したいことがあります。
みなさんは、次のAとBのどちらの山を登りたいでしょうか。

A・険しくて高いけれど、山容が美しく、山頂からの眺めも絶景な山
B・誰でも容易に登ることができ、山頂からの眺めが凡庸な山

もし「Aのほうを登りたい!」と思われるようでしたら、是非一緒にそうしましょう。
「Bのほうが良い」という方は、それはなぜなのか振り返ってみてください。
価値観を押し付けるつもりは毛頭ありませんが、「それは本当に楽しいことなのか?」と見つめ直してもらえれば幸いです。

「そうはいっても現実問題、Bを目指すほうが効率的だし、アガれなかったら身も蓋もないじゃないか」
と思う方もいらっしゃるでしょう。
確かに麻雀はアガってなんぼ、です。他の人が先にアガったら何もないように見えます。

でも、思い出してください。
麻雀のアガリの成否は、途上が楽かどうかはあまり関係がなく、最後の瞬発力によって決することが多いのです。
どんなにキツそうに見えても、どんなに回り道をしても、最後の最後でしっかりと力を発揮できればアガリをとることができます。
険しい山だったとしても、ちゃんと登りきることができるのです。

下の牌姿は、第36期鳳凰位戦第10節の私の手です。

 

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すでにテンパイしています。
私は、ここから六筒を切りテンパイを崩して清一色に向かいました。
・牌の組み合わせ・つながりが良好で、伸びがある上、まだ序盤で十分アガリが見込めること。
・上家の捨て牌からマンズを仕掛けることも期待できること。
・得点状況に余裕があること。
など、いくつかの方針決定の要素はありました。

しかし、根幹となっている意思決定基準、思想は「どの山を登りたいか」です。
この手、最初のテンパイでアガっても何が残るのでしょうか。
険しくて登れるかどうかわからない、でもチャレンジしがいのある山のほうに登りたくはありませんか。
きっと頂上からの眺めはサイコーです!

メンツを崩すことを「強欲」だと感じる方もいるかもしれません。
でも、私にとっては、チンイツに向かうことが「自然」であり、アガリ逃しやノーテンを恐れ、最初のテンパイにこだわるほうがむしろ「強欲」だと感じます。

「何かを捨てたほうが、かえって大きなものを得ることがある。」
このことは実は麻雀の分野でも摂理に近い気がしています。

一日を終えたときに「どんな山を登ったのか」によって、満足度は違うでしょう。
大袈裟に言えば、人生を終えるときに「あんな山に登ったことがある」という思い出があるほうが、実りある一生だと考えています。

 

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【②急所を登りきる脚力】

 
取り組みがいのある山にチャレンジしているとき、最大の難所は前回も言及したとおり、やはり山頂の手前となります。
しかし、それこそが力の見せ所、面白いところと言えるのではないでしょうか。

誰も登れなさそうな崖を、人並外れた技術や腕力を持って踏破する人には憧れます。
誰も通らない獣道を勇気をもって分け入り目的地に到達する人には心を動かされます。

それらを成し遂げるには、やはり研究や分析の努力、練習が必須でしょう。
時には定説となっていることを疑い検証することも大切かもしれません。

・数多く放銃を経験している人の方が、「どういう時に放銃する」とか「どういう時に高い点である」と知っている。
・数多く鳴いている人の方が、「鳴いた後の変化の度合」や「守備力の向上」の技術を身に着けている。
・常識的な選択に「本当にそうか?」と掘り下げている人の方が、選択肢は多く視野は広い。

柔軟な思考で神羅万象に探求心を持ち
「こうすればこうなる」
と、より多く理解している人の方が麻雀は強いと私は考えています。

私は過去に下のようなトレーニングをしたことがあります。
①3巡以内に必ず振り込む。
②振り込む前に相手の点数を読む。
③決めた時間にちょうど半荘を終らせる。
④どんな手でも巡目でも、とにかくリーチする。
⑤ホンイツ七対子しか狙わない。
などなど。
もし麻雀や対戦相手を冒とくしているように感じた方がいたらごめんなさい。
しかし、このような取り組みを経て、それまで見えていなくて、わかってきたことが私には多々ありました。
よかったら⑤だけでも機会があったら試してみてください。
結構な確率で良い線までいくことが理解していただけると思います。
もしかしたら麻雀観が少し変わるかもしれません。
そういった積み重ねで「イメージや先入観」と「真理」との溝を徐々に埋めることができると私は考えています。

下は第34期十段戦ベスト16D卓3回戦からです。

 

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このテンパイから四索を切り八索単騎のリーチに踏み切りました。
「ピンフの役」とリャンメンという「待ちの枚数の多さ」を捨てたわけです。
結果すぐに出アガリできたのですが、この選択は多くの方に驚かれました。

このときは、下家のダンプ大橋プロが九索をポンしています。
他にも何点か判断材料がありましたが、ざっくり書くと
八索が使われていない(良さそう)
一索四索が使われている(あまり良くない)
という読みがありました。
ツモったときに満貫となる枚数が多い八索単騎のほうが優秀(またそのためにここまで温存していた)と考えたこともあり、
個人的にはごくごく普通の自然な選択で、奇をてらったつもりはありませんでした。
ただ、手拍子で打ち一索四索待ちにする人も多いかと思います。
正解はこうだ、といいたいわけではありません。
正解は私にはわかりませんし、裏目ももちろんあるでしょう。

主張したいことは、一打一打、麻雀の真理に沿ったものになるように絞り出すように真剣に考えることの重要性です。
先入観にとらわれることなく、惰性になることもなく取り組み、またその土台となる技術を日頃養う事の肝要さなのです。

それが、他の人があきらめるかもしれない山を登るための大事なトレーニングになると信じているのです。

 

 

【③相手との距離感】

 

もうひとつ大事なことがあります。
それは対戦相手との兼ね合いです。
対局者がいるのだから自分の都合だけで進めることはできません。
手合いのレベルが上がってくるとなおさらのことです。

自分がいくら自信の持てる手作りをしたり、待ちになったからといって必ずしも勝てるとは限りません。
相手がさらに上回る手作りや待ちをしている可能性が十分あるからです。

自分が3面待ちで、相手のカンチャン待ちに負けた時に、嘆く暇があったら何故負けたのか手がかりを探るべきです。
もしかしたら自分の3面待ちより遥かに優秀なカンチャン待ちかもしれません。
そういうときは未だ自分のアガリの基準が甘く、まだまだ努力不足で工夫する余地があるということなのでしょう。
それに気が付くことが、相手を知ることであり、自分の麻雀の幅を広げる成長のチャンスかもしれません。

 

 

【④絵を描く】

 

私は、配牌を手にしたときに、まず最終形のイメージを描き構想を練ります。
「こうなりそうだなあ」
「こうしたいなあ」
というイメージです。

それは「絵を描く」ことに似ているなと、常々感じています。
与えられた材料で真っ白なキャンバスに美しいアガリの絵を描くのです。
もちろん、完成に至る設計図は何パターンも用意するし、途中で新しいアイデアが湧くこともあります。
しかし、最初に抱いたビジョンが鮮明であるほど実現する可能性は高く、構想に寄り添えるほど達成率は高いと感じています。

絵を描くことは右脳を使う。計算は左脳を使う。
と言われます。
右脳が主導権を握り、左脳がしっかり基本をサポートする。
双方が合致して調和しているとき、そうそう悪い結果になることはないと信じています。

 

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「あの山に登りたい」
「こんな絵を描きたい」

その思いを基に、集中力と技術を結集させて歩を進めれば、道に迷うことはないし、うまくいかず退却するときも潔く諦めることができます。
そして何より、相手と全面対決になったときに動じないし、結果がどうなろうと後悔がないのです。
「この手だったら心中できる」という覚悟があるからです。

それでも負けたら…
相手が上回ったのだから仕方がなくありませんか?
それだけ素晴らしい対戦相手に恵まれたことに感謝すべきで、また努力して上を目指せば良いだけだと私は考えています。

「麻雀讃」で有名な昭和の文豪、菊池 寛は、「麻雀春秋」の中で以下のような言葉を残しています。

麻雀の世界は、生活を離れた一つの楽園である。
そこではどんな空想も描くことができるし、どんな計画でもたてることができる。
他と競いながらも、自分は自分で創造の快感に酔うことができる。

私はこの表現に深く共感をもつ人間です。
「プロならば結果が全て。勝たないといけない。」という考えがあることは承知しており、そう考えない私は悩んだ時期がありました。
しかし、現在はこの文脈の上で「麻雀は描いてこそ。挑戦を楽しんでこそ。」と表現していきたいと決意しています。

次回で最終回です。