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中級/第113回:中級講座『表と裏』 紺野 真太郎

どんな物にも「表と裏」は存在します。そして「表裏一体」という言葉があるように表と裏はワンセットです。
身近にあるものを見ても表裏があるものばかりです。そしてそれは物だけとは限りません。
あまり良い使われ方ではないですが、「表裏がある人間」なんて使われ方もしますし、相反する関係を「表と裏」で表すこともあるようです。
麻雀を打っている時の「表と裏」ってどんなものがあるでしょうか。
最近はあまり聞かなくなってきましたが、セットで楽しんでいる方々から「あと表裏ねー」(多分あと半荘2回という意味)なんて声が聞こえてきたりしたものです。
また、麻雀における相反する関係といえば「攻撃と守備」「先手と後手」「親と子」などがあり、これらも表裏の関係と言えなくはないのかもしれません。
しかし、今回の表題の「表と裏」はこれらのことではなく、麻雀中の「思考」についてです。
自分で書いておいてなんですが「思考」の表裏とはどんなものなのでしょうか。
私が考えるのは通常の「手順」が「表」とすればそれを「ちょっと待てよ」と考えることが「裏」です。
簡単な例を出しましょう。
一万一万五万六万二筒四筒六筒七筒七筒発発中中  ドラ一万
こんな配牌をもらったとします。「よし、いい配牌だ。満貫もらったぜ」と考えるのが普通だと思います。これを「表」とします。
それに対し「ちょっと待てよ。発中どちらかは鳴けても、その後はどうかな・・」と考えるのが「裏」です。
この「表」と「裏」の考えは常に両方頭の中に入れておかなければなりません。
相手の状況、実力やルールの違いなどで場に放たれる牌も変わってくるからです。
もう少し進めましょう。
上の手牌が東1局の親、第一打に北を切ったものとします。同巡の西家がいきなりドラの一万を切ってきたとしたらポンしますか?
私は多分鳴きません。理由は「びっくりしてポンの声が出ない」からです。まあびっくりしてというのは冗談ですが、ポンの声が出ないというのはあながち冗談ではありません。
私の性質上、西家の第一打がドラの一万というある種異常な状況に「表」の「攻め」より先に「裏」の「警戒」が頭をよぎると同時に、ポンしてしまうと異常な状況にさらに拍車をかけ、ほぼ西家との1対1か、1人旅の自力勝負になり、手牌にスピード感が乏しくなると予測出来るからです。
なぜそうなると予測するかを考えてみます。まずはドラを切った西家の思考から。
「表」は「タンピン(染め手)系の勝負手(早い手)ドラとはいえ、第一打に切るに値する」
「裏」は「大した手ではないが、ブラフにもなり、相手のキー牌になる前に処理」
こんな感じでしょうか。もちろん、こちらからは西家の手牌は見えないわけですから、この西家の思考はこちらの勝手な想像に過ぎませんが。次は北家、南家を。
北家「表」「いきなり親のドラポン。東1局であり無駄な失点は避けたい。鳴かせずに抑えきる」
「裏」「ドラポンとはいえ、この巡目からオリるわけにもいかない。親の役を見極め、キー牌だけは鳴かせないように」
南家「表」「下家だからそこまで制限はないが、ファン牌は打ちづらいな」
「裏」「無理せずに躱せるものなら躱したい」
北家も南家も想像に過ぎません。こう考えるであろうという「基準」です。
他家が「表」の思考を選択した場合、前に出てくるのは西家でこの場合1対1。その西家とて親にドラポンが入ったらどこまで戦えるかわからず、引いた場合は親の自力勝負となるのが濃厚です。
北家と南家の思考が「表」も「裏」も積極的でないのはアガリまでの距離が3、4番手だからです。
鳴かない理由は他家の動向が予測出来るからだけではありません。
配牌をもらった時の「裏」の思考「ちょっと待てよ。発中どちらかは鳴けても、その後はどうかな・・」これは見方を変えて「表」とすると別の「裏」の思考がでてきます。
「なんだ。七対子なら跳満の2シャンテンじゃないか」というメンゼンで進める「思考」です。
最初に書いたように「表と裏」は「表裏一体」です。またその「表裏」は「サイコロ」のように隣り合って連動しています。
そして「サイコロ」はどんな目が出るかわからないように「思考」もどれが正解だったかは「結果」がでるまではわかりません。
しかし「結果」は自分の「思考」だけではなく、相手の「思考」や既に積まれている牌山に左右されます。大事なのは「結果」だけに捉われずに「思考」のバランスを取り、自分が理想とするスタイルを構築し、ベストな「選択」をすることだと思います。
さて、今度は先程の手牌でどういうアガリへの道筋があるかを考えていきます。
ドラを切ってきた西家の動向を見つつという前提はありますが、早い巡目で5トイツ目が出来たら七対子でよいでしょう。その時の打牌はほぼ二筒です。(二筒が重なった場合は多分四筒)それはこの手が親番でドラが2枚あるチャンス手、アガリをものにしたい七対子だからです。
この手を七対子として見た時、ポイントは五万六万の部分です。この部分を手出ししてしまうと、どうしても他家から変則手を疑われてしまいます。なので、理想は少なくともどちらかは重ねてリャンメンターツ落としを見せないことです。
七対子の理想の捨て牌と待ちとはどんなものでしょうか。
理想の捨て牌とは七対子に見られないこと、理想の待ちは他家が使えない(切りやすい)ところです。
この五万六万の処理がうまく出来るのと出来ないのでは「結果」に差が出てしまいます。
手牌が、手役、高打点、速さを望める場合の捨て牌はその「気配」を消すことに意識を注ぎ、反対に望めない時には捨て牌で「気配」を演出することを考えます。これも「表と裏」の関係と言えるでしょう。
アガリたい手牌だからこその打二筒なのです。(ドラが無い手牌であれば五万六万と並べ相手の警戒を誘います)
次に一万四万七万三筒五筒七筒八筒発中をツモりメンツ手の2シャンテンとなった場合ですが、そうなった時には、仕掛けていくことを考えます。仕掛けた後は警戒され、自力勝負になりそうなのは、最初にドラをポンした時と同じですが、シャンテン数が進んでいる分、自力になっても勝負になると考えます。そうなった場合は捨て牌には気を遣わずアガリへの最短距離を走りぬく為に「思考」のギアを上げます。
ここまで私の目線からの「思考」を書いてきましたが、当然、ドラを鳴くという選択をする方も多いと思います。そちら側からみれば、そちらが「表」で、こちらが「裏」なのでしょう。
打ち手の数だけ「思考」があり、その全てに「表と裏」があり「連動」している。私はそんな風に考えています。
今回はここまでといたします。
それではまた。