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第77回『そして僕らは』

 

ようやっと、4月が終わった。
正確に記すならば、ようやっと、鳳凰戦のニコ動の視聴期間が終わった。
鳳凰戦が終了してから、ほぼ毎日、起床と共にパソコンを起ち上げ数時間は観ていた。
あまりの自分の脆さに嫌気がさし、30分ほどで観るのをやめた日もあれば数十時間観続ける日もあった。
夜、眠りに就く前も、翌日のことを考え今晩は30分だけと決めておきながらもやはり数時間は観てしまう毎日だった。

結果として勝利をモノにした戦い、例えば、昨年度のモンド王座戦、インターネット麻雀選手権、グランプリMAXなどがあるが、一通りは目を通してはいるが、鳳凰戦に比べれば何十分の一か、もしくはそれ以下しか観ていないだろう。

理由の1つには勝ち牌譜、もしくは勝った映像には傷が少ないからなのかもしれない。
佐々木寿人は勉強会の帰りなどに車で送ってもらうのだが、車中に流れている映像は自分が勝利を収めたモノが延々と流れ続けている。

「飽きない?」
「僕は自分の勝った映像しか興味ありませんから!」

やはり、性格というか、気質の違いなのだろう。
話を戻すと、とりあえず視聴期間が終わったということは、しばらくは自分に嫌気がささなくて済むということである。実際は牌譜データサービスという面白くて厄介な代物が存在するのだが…。

反省材料はエベレスト級に山積みされているが、解りやすい部分だけ記してみたい。
人は間違う時は全く同じではないにしても、相似形に近い間違いを犯すものである。

三索四索五索一筒一筒八筒八筒  チー四万 左向き三万 上向き五万 上向き  チー五筒 左向き三筒 上向き四筒 上向き  ツモ一筒  ドラ一筒

1回戦の南2局に、一見トリッキーに映るかもしれないが好感触を得て迎えた親番。

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ツモと決め事の狭間で

これは決め事というよりも私の中のセオリーと言った方が解りやすいかもしれない。
前述の通り、私は前局のアガリに感触を得、なおかつトップ目でもあり、入り目がカン八索ということもあり、ここでわずかな逡巡を覚えながらも即リーチを打っている。

その逡巡の中身とは、前巡に北家である瀬戸熊鳳凰、十段にアガリ牌である五筒を打たれている。
普通の状態であるならば私は親番とはいえ、ここは直前に五筒を打たれている以上、ヤミテンに構えるのが本手を打つということだと考える。

正しいかどうかは別として、これが私の決め事であり、セオリーと呼ぶべきものである。

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結果は正直なもので本手を打ってさえいれば、

一万二万三万七万九万二索三索四筒七筒八筒九筒東東   ツモ八筒

荒正義さんからリーチと同巡に、掴んだ八筒を捕えられることは論を待たないところである。
このことは、対局中も荒さんが五筒八筒を掴んだことは感覚として感じていた。

いくら前局のアガリに好感触を得、なおかつ入り目が良かったとしても、本手をひたすらに打ち続けるのがプロとしてのカタチであると思う。

そして9回戦南2局1本場もご覧いただきたい。
ここでの私は、精神状態もかなり揺らいでいて一時は箱を割っていた。
その時私は、常日頃から若い人たちに言っていた言葉を思い出していた。

「競技麻雀において、役満でも打たない限り、箱を割るということは若手であればあってはならないことだ」

私はその言葉を思い出しながら、謙虚な気持ちを持って、南1局の藤崎智の親番を500・1,000のツモアガリで自分の親番を迎えた。

そして南2局、藤崎の追撃リーチをかわし、幸運にも親満を引きアガることが出来た。

八万八万八万一索二索三索三筒三筒三筒六筒六筒南南  ツモ南

そして南2局1本場。

六万八万九万一索二索二索四索四索五索八索東西北北  ドラ北

私は配牌を見た瞬間、アガりを目指すにはかなり難しく感じられた。
ただ、それはそれでいいと考えていた。
それは、競技麻雀プロである以上、私の教示として箱を割ってはならないという思いがあったからである。
ところがツモの伸びが素晴らしいものであった。

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あの配牌が、僅か7巡目に4,000オールもしくは6,000オールの手に育ったのである。
今鳳凰戦の第一戦の南3局と背景はかなり違えど、ある意味、同様の場面ではある。
それは、ご覧のとおり荒正義さんがテンパイの直前に高目でもある六索を河に放っている。
私はつい数分前までの謙虚な気持ちをどこかにおきざりにしてツモの伸び、好感触に酔ってしまっていた。
私の選択はノータイムの「リーチ」であった。

麻雀に限らず、あらゆる戦いに必要なものは「心・技・体」である。
私はこの中でも大切に思っている心の軸である。そして、その軸がぶれてしまったのである。
言葉を変えるならば、戦う姿勢が出来ていないと言っても良い。
相手と戦う以前に、自分自身に負けてしまったようなものである。

鳳凰戦という舞台は最高の檜舞台である。その中で、最高のプレイ、パフォーマンスを魅せるのが前述したとおり舞台に昇ったものの義務である。そういう意味合いでは、荒正義さんのプレイは素晴らしい。
リーチ同巡の荒さんは、一発で私のロン牌である六索をツモり僅かな少考の後、私の現物牌である二索を抜き打った。果たして私が荒さんの立場だったらどう打っただろうか。

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結果はご覧のとおり、藤崎のツモアガリで収束を見た。
この藤崎のツモアガリも藤崎らしい受けのカタチである。

誤解しないでいただきたいのは、結果から答えを引き出しているわけではない。
テンパイ直前にロン牌を打ち出された場合はヤミテンに構える。
このことは私の中での信念と言ってもいい。

このことを今、若い人たちに解って欲しいという気持ちは持ってはいるが、押し付ける気は毛頭ない。
私が言いたいこと、伝えたいことは、何事であれ自分の信念を貫き通せなかったとき、自ずと負けはやってくるのだということである。

鳳凰戦全対局終了後、打ち上げの席で勝又健志君、猿川真寿君とテーブルを共にした。
「これからは君たちの時代だ。お互いのために麻雀に関して思っていることは、はっきりと言うべき時が訪れているように思えてならない。それが私と貴方達だけということではなく、将来の連盟のためにもなるはずだから。」

勝又君という男は、例えばその打ち上げの席上でもトイレに行く場合、私の後ろを通り過ぎる時、
「後ろを失礼いたします」
そういう人としての礼儀、品格を併せ持った男である。

そんな勝又君が、ためらいがちに重い口を開いた。
「前原さんがそうおっしゃってくださるならばハッキリ言わせてもらいますが、今回の鳳凰戦での前原さんの対局内容は私たちに普段言ってくださることとは違うように思えてなりません。」
「そうか、ありがとう」
横で2人の会話を聞いていた猿川君は、何も語ることはなかったが、静かに目を閉じ頷く様な風情で一気にグラスを空けた。

麻雀は所詮、所謂、遊びである。遊びにしか過ぎないのかもしれない。
その遊びを生業にしている以上、それでも僕らは今日もそして明日に向って真正面から、ただ、ひたすらに立ち向かっていくしかないのだろう。

猿川君は、グランプリMAXの観戦記の冒頭の部分で、私の鳳凰戦の戦い方を、一言「哀しかった」と記している。その言葉の裏側には、間違いなく私へのなんらかの想いがあったことは間違いない。

私は彼の文を読み、感謝の気持ちと奮い立つ気持ちに包まれた。
お互いに言いたいことを述べ、記し、お互いが向上して行く____そして僕らは・・・・。