上級

上級/第80回『自分を識る』

『自分を識る』
私には幾人かの恩師と呼ぶべき方たちがいる。
その方達は、例外なく強烈な個性を持った方達で怖いのだが、優しい。
叱るべき時は相手が参ったという表情をしていても、さらに追い込むような人ばかりである。
ところが、私は自他共に認める、かなりどうしょうもない生き方をしていたにも関わらず、
叱られたこともなく、褒められた記憶しかない。ある恩師にその理由を尋ねたことがある。
「それは、人という生き物は皆自分の欠点は知っているものなのだよ・・・逆に自分の長所、もしくは良い処は知らないことの方が多いものなのだよ。」
しばらくの沈黙の時が流れた。
黙っていたわけではなく、どう反応していいのか解らないだけなのだが。
「そういう生き物なのだから、その人の良い部分を拾ってあげた方が、その人のためになるように思えて仕方ないんだ・・・」
「私自身、もうどうにもならないナと思い続けた日々があった。その時にある人のやわらかい言葉がなかったら、今の私の人生はなかったように思う。」
何のことかぼんやりとは想像したが、それ以上のことは触れなかった、いや、触れてはいけない部分のように思った。
もう20年ほど遠い昔の言葉だが、訊いておけば良かったと思う気持ちと訊かなくて良かった思う気持ちが今でも交錯する。確かに自分の思う私と、他人が思う私は別の人間であるようにも思える。
元来、評価というものに興味を持たず30歳過ぎまで生きてきたことだけは間違いない事実である。
最近になって、自分が麻雀を打っている時の映像を見た折り、常に歯を喰いしばって頬の筋肉が動き続けているのに気が付いた。それほど難しい局面ではなく、不思議に思い、ヒサトにそのことを訊いた。
「ぼくが、前原さんと出会った頃、14、5年前には既にそうでしたよ」
「本当かよ?」
「本当です!」
振り返ってみれば、私が20代の頃通っていた雀荘は、何処に行っても私が最年少で若い人でも40代だった。
私は20歳になってから煙草を覚えたのだが、麻雀を打っている間は煙草を吸わなかったらしい。
らしいというのは、
「坊やの卓においている煙草は飾り物か?」
そう言われたことがあったからである。
煙草を吸う余裕がなかったのか、それだけ、集中していたのかは今となっては思い出せないが、おそらくは、煙草を吸うために、目が卓から離れ大切な何かを見落とすのを恐れたからだろうと思う。
いずれにしても、話す相手もいなく、煙草に眼を落す余裕もなかったくらいであるから、その頃から歯を食い縛りながら麻雀を打っていたのだろう。
~バイオリズムを識る~
20代半ば過ぎの頃、8月に入ると調子が悪くなることに気付いた。
妻の薦めもあり、思い切って麻雀を離れた。
1ヶ月ほど家族旅行に当てた。麻雀専門誌と牌譜を旅行先に持っていき読み耽っていた。
元来自堕落な私は、夏休みと称し30歳になるころまで、8月から年内は公式戦以外は牌に触らなくなっていた。
11月頃から走り込みを始め、身体を作り年明けから牌に触り始め、3月から7月一杯まで麻雀を打つ。
そういうサイクルが数年続いた。
理由のひとつには、私を連盟に誘ってくれたSさんが、PTA(ポン、チー、アソシエーション)なる麻雀普及活動を始め、私と石崎洋ともう1人の4人で、毎週月曜日に新宿のSさんのマンションに集まり、企画を練り、全マスコミ、出版社にニューズレターなるものを送り、翌週までにSさんがお題を出し4000字の宿題、論文の提出を我々に義務付けられたからだ。
大抵は書き直しを命じられ、原稿用紙と睨めっこの日々が続いた。
当時、麻雀専門誌が13誌あったころだったから、ヘタな文章でもそれなりに収入にはなっていたのかもしれない。
女性週刊誌に連載の以来が来たことには、Sさん自身も驚いたと共に活動の自信にもなったようだった。
活動はSさんが連盟を辞められると共に終わった。
Sさんの構想では、本を出版したかったようだったが、ついに1冊の本も出さずに終わった。
それは、我々が渋々書いていたのだから当然にも思われたが、Sさんには申し訳なかったと今になってそう思う。
「無駄なことなんてないんだよ、大事なのは懸命にやることなのだから」
この言葉が口癖だった。話が少し逸れた。
とにかく、20代の私は8月になるとバイオリズムが低下した。
今思えば、雀荘は高齢者が多く冷房を嫌い、若い私は暑がりだったのもあったからだと思う。
20代の私に言ってやりたいことがあるとすれば、年間を通し、きちんと麻雀に向き合い、負け方の勉強をすれば良かったということである。
今年の鳳凰戦から有料放送となった。
つまりはお金を支払い、我々の戦いを観ていただくわけである。
結果は、瀬戸熊直樹の圧勝で幕を閉じた。
それはある意味良いことなのだが、対局の合間や、家路に着いてから見てくださった方々に申し訳ない気持ちが心の中を渦巻いていた日々でもあった。
先日のニコ生放送、「ゆきなのお部屋」で、藤崎智が同様の言葉を言っていたが、藤崎も同じ気持ちでいたことに少し驚かされた。
やはり、視聴者の望むのはシーソーゲームだろうということである。

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私の手牌は瀬戸熊のリーチをを受け
六万五索六索六索七索七索八索一筒三筒五筒六筒七筒七筒  ツモ中  ドラ三筒
私のミスがあるとすれば、ここで安全牌の打中とするのではなく、打五索とすべきところだったように思う。
受け手順に入っている以上、きちんと五索を抜き打ちしておかねばこういう牌の寄り方をする時は手牌が膨らみ手が育ってしまい、攻めざる状況に追い込まれることがままある。
所謂、「手牌に負ける」結果を導き出しやすい。
尚且つ、真っ直ぐに攻め込んでいれば、11巡目、
三万三万五索六索六索七索七索八索一筒三筒五筒六筒七筒
この形から瀬戸熊の二筒を捕えられていたようにも思う。
この時点の瀬戸熊と私の状態は、私の方にかなり分があるように感じていた。
局面を何難解なものにしたのは荒さんの仕掛けである。
リーチが入った以上、ここで四万を仕掛けるということはポンテン以外の何物でもないと思い込んでしまっていたからである。ところが荒さんはさらに三索をポンした。
この三索の仕掛けが受ける側にとっては局面を難解にさせた。
難解ならば、それなりに、今、通った六万を打ち出せば良いのだろうと、冷静な判断を今ならできる。

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結果は私の放銃で収束を見た。放銃そのものはそれほど気に留めてない。
ただ、放銃に至るまでの内容が悪すぎる。手牌に負けてしまったことが後悔の念を強めた。
このカタチを目指して真っ直ぐに行っての放銃と、このカタチになってしまったからの放銃は、私の中での意味合いは全く違う。
荒正義さんが、局後何気なく呟いた。
三筒切りのリーチしかないから」
私は基本的に放銃を引きずらないタイプである。
ただ、お金を払って観てもらった方々に申し訳なく思った。
やはり、あの20代の夏にもっと負け方の勉強をしておくべきだった。
それなりに自分自身の麻雀のカタチを識っているつもりだったが、錯覚だったのか、もしくは私の麻雀の質そのものが変容してしまったのかもしれない。
近年、鳳凰戦の決勝で敗れ去った者の多くが1、2年以内にA1リーグからA2リーグへと降級することが多い。
それは、敗者がそれだけ多くの手傷を負うことに近いように思う。
逆に記すならば、鳳凰戦そのもののステージの高さを物語っているようにも思える。
本来、戦うということは無傷では済まないものである。
今、役300名を超す若い打ち手達が頂点である、鳳凰を目指している。
その方達に伝えたい言葉があるとすれば、相手を識り、自分を識り、牌と日々、自分自身を見失うほどの緊張感を持って、戦ってほしいということである。
次回へつづく