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第76回『その先に在るもの』

2013/04/17
執筆:前原 雄大


私達は、毎週木曜日に麻雀の勉強会をしている。
もう、かれこれ5年くらいにはなっただろうか。

当初は、あらゆる意味で厳しい会だったように思う。
教える側も本気だった分、言葉の行き違いがあったようにも思われる。
あの温厚な山田浩之でさえ、登校拒否になったくらいだ。

ひとつに、若手はその局面の最善手を求めすぎるあまり、全体、もしくはその半荘からの最善手を求められない傾向にあったため、いつの間にか語気が荒くなったせいもあると思われる。

ただ、私はそれでも良いと考えていた。
なぜならば、その語気の裏側に後輩を思う気持ち、良くなってほしいという祈りにも近い愛情がそこには間違いなく存在していたからである。

若いうちは手順、局面の読みに頼りがちになることは致し方ないことのように思う。
なぜならば、私自身が若い頃そうだったからである。

私に運があったのは、プロになって優れた先輩達に恵まれたことである。
麻雀というゲームは包容力があり、手順だけでも相手が弱ければ勝てるものである。
言葉を変えるならば、手順は基本であり、ここだけはきちんと掌握しておかねばならない部分である。

以前にも記したが、手順を疎かにして思い込みだけで麻雀を打つことのほうが、その打ち手を遥かに危うく脆いものにしてしまう。

例えば、箸の持ち方、扱い方に似ている。
幼い頃、箸の扱い方をきちんと躾けてもらえないまま大人になった人は、なかなか矯正できないように、何事においてもまずは基本を学ぶことが大切なことなのである。

条件計算も基本の1つである。
私達の世代は、テンリーダーなど存在しておらず、相手の持ち点を記憶していた。
記憶、計算しておかないと、ラスのラスアガリなどということにもなりかねない、もしくは1,300点差の2着目が、1,000点アガって2着のままなどということになりかねないから、100点単位の計算もキチンとしていた。これも基本の1つではある。

先日の勉強会のひとコマから。
親番・内川幸太郎23,700
南家・杉浦勘助23,200点
西家・佐々木寿人34,800点
北家・ガース38,300点

6巡目、杉浦の手牌。

二万二万三万四万四万五万五万六万四索六索四筒五筒六筒  ドラ八万

杉浦は静かに潜航策のヤミテンを選択した。
杉浦という男は風貌通り物静かで、麻雀に牌理というものが存在するならば、勝又健志か杉浦勘介かといわれるほどの打ち手であり、遠く中京から、月に何度か勉強会に参加するためだけに上京してくる。
それは、彼自身は語らないが、強くなりたい、強くありたいという衝動にも似た志が、かれを上京の道へと突き動かしているのだろうと私は思っている。

そんな杉浦の選択である以上、これは1つのセオリーと言っても良いだろう。
ただ、少し状況を付け加える。

捨牌
内川  四索四索五筒五万白二筒
杉浦  一索二索九万西白
ヒサト 一万四万五索五索四筒
ガース 四万四筒六筒八筒二筒

ガースは、ヒサトの2枚目の五索を逡巡したのち仕掛けている。
チー五索六索七索

「そうかな・・先行きに不安が残るように思えるけど・・・」

杉浦にだけ聞こえるように私は呟いた。
以前は、局を途中で止めて、その打ち手の打牌について意味を問いただすこともあったが、今はそういう形をなるべくとらないようにしている。

セオリー、もしくは本手、最善手ということであれば、杉浦の方法論はそこに乗っ取っていることは確かな部分である。良い、悪いは別として、リーチを打つのも悪くない局面に思えたからである。

ガースの仕掛けは明らかな一色模様である。
ただ、五索を仕掛ける時に逡巡があったように、そこまで、信用に値する仕掛けではないように映ったこと。
ヒサト、内川の手牌進行の速度が遅いことは捨牌だけでなく、場面の雰囲気からも読み取れた。

ここまでは、杉浦も私と同様の読みを入れていたように思う。だからこその選択なのだろう。
五索は見えているだけで2枚・・ガースの一色を考えれば、残りはおそらくあって1枚。
ただ、その1枚は確実に山に眠っていることは私もそうだが、杉浦も確信していた。

持ち点は1つの形勢判断のバロメーターである。
ヒサト、ガースが良くて、内川、杉浦が悪い、というのが私の見立てである。
杉浦と内川ならば、同じような点数でありながらも、途中の経過から推し量れば、わずかながら内川の方に分があるように私は考えていた。

ちなみに、私の目に見える手牌は、前述の杉浦の手牌とヒサトの手牌のみである。
この時点でヒサトの手牌は、

一万二万三万八万九万二索三索九筒九筒南北北中

杉浦の良い部分、いわゆる長所は、気配を全く出さないところである。
この時点ならば、ヒサト、内川が五索を掴めば、間違いなく放銃で終わるだろう。

ただ、果たして今のヒサトが五索を掴むかと問われれば、掴まないと私は考える。
ガースからは、ソーズは欲しいところではあっても、まず、こぼれるほどの姿形にはなっていないだろう。
内川はチャンタ、もしくは上目の三色の手牌構成に映ったが、1シャンテンから2シャンテンの間だろう。
状態から考えれば、内川からの出アガリはあるかもしれないという場面である。
ここまでは、ほぼ杉浦と私の認識は同じだろう。

そして、次巡の杉浦のツモが六万で打三万

二万二万四万四万五万五万六万六万四索六索四筒五筒六筒

この牌姿になってしまえば、さらに杉浦はリーチを打つ理由、根拠がなくなる。
そしてツモ二万。ここが1つのターニングポイントである。

二万二万二万四万四万五万五万六万六万四索六索四筒五筒六筒

ほんの僅かな少考後、杉浦の選択は手出し打二万

「手出しとツモ切りと、どちらが効果的か考えていました…少し柔軟性に欠けていたかもしれませんね」

私はいわゆる流れ論者と捉えられているようだが、麻雀を、偏りを捕まえるゲーム、もしくはその偏りを捕まえた時に、いかに維持させ続けるかのゲームと捉えている。
今局のツモ二万の意味するところは、私が杉浦の立場であったなら、とにかく、アガリ切り親番につなげることをテーマに持ってくる。ならば、打つべき打牌候補は四索六索となる。

マンズのフリテン形も、相手の速度を加味すればそれほど悪くはない。何しろ五索待ちよりはマシだろう。
これは私が正しいと言っているわけではなく、私ならばそうすると言うだけのことであるから、誤解なさらぬよう。

いずれにしても、テーマの在り方は人それぞれだが、杉浦と私のテーマがここで別れた。
杉浦の連綿としたツモ切りが続く中で、まず、好調者のヒサトに牌が雪崩れ込んでくる。

ツモ北北と続き、まずは1シャンテンから暗槓。
ガースがドラである八万をノータイムでツモ切り。
そして、遂にヒサトが要のツモ七万で「リーチ」

一万二万三万七万八万九万二索三索九筒九筒  暗カン牌の背北北牌の背  リーチ  ドラ八万

同巡、親番の内川が追いかけリーチを打つ。

六万七万八万七索八索九索一筒二筒三筒八筒九筒西西 リーチ

ちなみに、内川の入り目は六万である。
内川がリーチを打つ理由は、まずは親番であること、そして、杉浦の長所である気配が出ていなかったことで、ヒサトとの刺し勝負であれば、条件としては悪くはないと考えたのかもしれない。

このツモ六万の意味を解釈するのは、これも人それぞれだが、弱いツモであることは論をまたないところだろう。
ツモが弱いからヤミテンに構え、ツモ九万に備える打ち手もいれば、ヒサトに対し危なげな牌を引けばオリに向うのも1手ではある。そこら辺りの部分はデリケートなところで、これも人それぞれだろう。
2人の挟撃にあったのが、一番速く充分な打点を伴った杉浦である。

二万二万四万四万五万五万六万六万四索六索四筒五筒六筒

この牌姿に一発で掴まされたのが、内川のロン牌である七筒であった。
杉浦の出した答えは、打六索のテンパイ崩し。
麻雀というゲームは、本当に正直にできているゲームであることを思い知らされた一局ではある。

「そうかな・・先行きに不安が残るように思えるけど・・・」

私がそういったのは、この展開になることを予測しただけのことである。
最初のテンパイでリーチを打つのは、周りを降ろし、負けのない山だけとの勝負に持ち込むことと、仮に流局してもテンパイ料以上の効果があると考えられるからである。

ヒサトはまず、北を4枚河に並べるだろう。ガースは、ドラである八万で退くだろう。
そして内川も、真っ直ぐにオリに向う。
それは私のリーチではなく、杉浦のリーチならばこそ誰も立ち向かえないと考えるからだ。
それが、何年もかけて築き上げた、杉浦というプレイヤーのブランドの力である。

「前原さんの言葉は良くわかります・・ただ僕は、次回同じ場面が訪れたとしても、
今局と同じ方法論をとるかもしれません」

「それで良いと思うよ。貴方が長い間、それこそ膨大な時間を懸けて麻雀に正面から取り組んできたカタチなのだから、ただ、こういう戦い方も在るということを頭の片隅の何処かにしまっておいて麻雀に取り組んでいけば、また新しい、その先に在るものが、見えてくるかもしれないから・・」

私達が毎週やっていることは研究会ではない、勉強会である。
勉強とは教わるものではなく、自分から学ぼうという姿勢と、強くなりたくてどうしょうもない、プロと呼ばれる人種の集う会であるべきだと私は考えている。
私も先輩から教わり、観ること、打つことで後輩からも学んでいるのである。

この勉強会を立ち上げたのは、現会長である森山茂和プロである。
当初とは、全く違うカタチに会そのものが変容したようにも思えるし、そこには決して少なくない試行錯誤の繰り返しが存在していたと思う。今後も澱むことなく変容していくのだろう。

どういうカタチになるかは、その時代の中心に生きている若い後輩達が懸命に考え続け、言葉を交わし、時には言葉を投げつけあっても良いとさえ思う。

それは、彼等が真剣に麻雀に取り組んでいる証であるはずだから___。